東武伊勢崎線川俣駅の変遷
歴史
年表
1903年(明治36年)4月23日 利根川右岸(埼玉県側)の堤防下に暫定的に開設。
1906年(明治39年)2月27日 川俣(埼玉県)~足利町(現 足利市)間18.6km延長工事着手届出。
1907年(明治40年)8月27日 利根川橋梁の開通に伴い、利根川左岸(群馬県側)に移転。
1992年(平成 4年)9月21日 羽生~川俣間4.3km複線化完成(利根川新橋梁完成)。
2016年(平成28年)1月23日 駅舎を橋上化。東口が開設。
成り立ち
東武伊勢崎線は1903年(明治36年)、加須-川俣間の開通で埼玉県内を全通しました。
当時は、川俣(現 埼玉県羽生市本川俣)が終着で、そこには暫定的に川俣駅(現在は廃駅)が設けられていたといいます。当時、利根川を渡って群馬県へ行く手段は、渡船のみでした。
東武鉄道にとって利根川は、まさにルビコン川のようでしたが、根津嘉一郎社長(当時)の指揮下のもと、外に向って路線延伸の積極策に転じ、利根川へ延長549mの大鉄橋を約40万円(当時)投じて架設したのでした。
東武伊勢崎線が、川俣駅を利根川を越えて群馬県側へ移し、その先の足利駅まで路線を開通させたのは、1907年(明治40年)で、終点の伊勢崎市に達するのは1910年(明治43年)のことでした。
また、1907年(明治40年)に川俣駅を群馬県側(現 群馬県邑楽郡明和町中谷)へ移転した際には、梅島村(当時)の冨塚徳次郎氏が、これからの村の発展、国の発展を願い、鉄道用地として多くの土地を提供したといいます。
歴史に思いを馳せる
川俣駅の歴史を学ぶと、先人達の先見性と決断力、そして、その根底に流れる利他主義という考えが、現在を生きる私たちを支えており、いつの時代もそうしたものが問われているのだと考えさせられます。
鉄道開通により、 日光脇往還の関所(※)、渡船場として賑わいを見せた川俣地区(現 群馬県邑楽郡明和町川俣)は、今や交通の通過地点となってしまいましたが、明和町にとっては、直接都心の交通網に接続する重要な交通手段を手に入れたことになったのでした。
なお、川俣駅は小説の舞台となっています。田山花袋が大正8年に発表した「再び草の野に」は、現在の羽生市にあった川俣駅(移転前)が廃止され、周辺が凋落するまでを描いた作品となっており、当時の世相と利根川周辺の自然風景を織り成して、詩情豊かに描写されています。
明和町長 冨塚 基輔
※八王子千人同心が日光東照宮勤番(火の番)のために整備した街道で、甲州街道・横山宿(現八王子市)先の千人町から日光東照宮までの40里(約160km)のことを言う。宿次も整備された脇往還であった。
※街道名は、日光脇往還のほかに千人同心街道、日光火之番街道、日光裏街道などとも呼ばれる。八王子・千人町を出発した街道は、多摩川を渡って拝島に入り、入間、坂戸、東松山、行田、館林を通って栃木県佐野の天明宿まで。その先は 例幣使街道、日光西街道(壬生街道)、日光街道を通って日光東照宮に至っている。
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更新日:2020年08月20日